小辞典


あ行

羽左衛門と尾上家(うざえもんとおのえけ)

市村羽左衛門は江戸三座のひとつ、市村座の座元(劇場経営者)の名前です。十二代目の市村羽左衛門(1812-1851)が三代目尾上菊五郎(1784-1849)の娘とわと結婚したときから、市村羽左衛門の名前は尾上菊五郎家と関係の深いものになりました。

十二代目羽左衛門ととわの間に次男として生まれたのが、のちに五代目菊五郎(1844-1903)となる初代尾上九朗右衛門です。若くして世を去った父親の後を継ぎ、わずか8歳で十三代目羽左衛門を名乗って市村座の座元となりました。その後、羽左衛門として座元を勤めながら、役者としては四代目市村家橘と名乗り、実力と人気を身につけていきました。

徳川の治世が終わりを告げた明治元(1868)年、23歳のときに五代目尾上菊五郎を襲名。市村座の座元は弟の竹松に譲りました。この十四代目羽左衛門はのちに家橘を名乗り、そのセリフの特徴から「鳩ぽっぽ」と呼ばれる役者となりました。

その後、羽左衛門家は十五代、十六代と養子縁組により名跡の継承が行なわれましたが、六代目菊五郎の甥にあたる七代目坂東彦三郎が十七代目の羽左衛門を継いだことで、ふたたび音羽屋と羽左衛門家のあいだに深い関係が結ばれました。

音羽屋、屋号の由来(おとわや、やごうのゆらい)

音羽屋という屋号は、初代菊五郎(1717-1783)の父親に由来しています。初代の父は音羽屋半平といい、京都の宮川町に住み、都万太夫座の出方を勤めていたと言われています。出方とは、劇場で観客の案内をしたり、飲食の便宜を図ったりする人のことです。

芝居の世界に生まれた初代菊五郎は、少年時代から舞台に立って若衆方として人気を呼び、その後は若女方となって活躍します。のちに江戸へ下って女方として絶大な人気を誇りましたが、30代半ばにして立役に転向。その後は『忠臣蔵』の由良之助と戸無瀬など、立役と女方の両方を手がけて評価を得ました。演出面においてもその後の義太夫狂言に大きな影響を与えたことで知られています。

尾上という姓を名乗る役者は初代菊五郎以前にも少数ながらいたわけですが、このように人気と実力を兼ね備え、後世にも影響を与えた初代菊五郎の存在の大きさが、音羽屋という屋号を定着させることになりました。

尾上菊五郎劇団音楽部(きくごろうげきだんおんがくぶ)

音羽屋一門および菊五郎劇団系の役者の舞台を中心に、黒御簾音楽と長唄舞踊の出囃子を勤める囃子方です。

菊五郎劇団音楽部は、六代目尾上菊五郎の市村座時代に演奏を担当していた囃子方の系統をひいています。市村座時代とは、明治末から15年ほどの間、六代目菊五郎、初代中村吉右衛門、七代目坂東三津五郎ら若手を中心に、市村座を本拠地に活躍した時代を指します。この一座で、囃子頭として音楽を担当したのが、三味線方の五代目杵屋巳太郎でした。巳太郎は、当時すでに歌舞伎座の立三味線でしたが、六代目とともに市村座に移籍し、その舞台を支えました。

巳太郎亡き後も、初代柏伊三郎(三味線方)、五代目富士田音蔵(唄方)、二代目柏扇之助(鳴物方)ら、それぞれの分野の第一人者とも言える演奏家たちが、菊五郎劇団音楽部の囃子頭=音楽部長を勤めて、現在に至っています。

菊五郎劇団音楽部の特徴は、河竹黙阿弥の作品など江戸の世話物を得意とする点でしょう。世話物では、黒御簾音楽が大活躍します。役者の呼吸をはかりながら演奏し、舞台に厚みをつける技術は歌舞伎専属の演奏家ならではのものです。

現在も部長の七代目杵屋巳太郎以下、強い結束力と息の合った演奏で歌舞伎の舞台を支えています。『歌舞伎黒御簾音楽精選110』(キングレコード)は、音楽部の演奏を聴くことのできる名盤です。

尾上流(おのえりゅう)

六代目菊五郎が創始にかかわった舞踊の流派の名称です。部屋子として幼少時から六代目に師事していた尾上琴次郎(1889-1964)は、大正11(1923)年から藤間流宗家の藤間勘十郎に舞踊を学び、藤間勘治郎(昭和5年)、二代目亀三郎(昭和16年)の舞踊名を授かりました。その後、昭和23(1948)年、六代目菊五郎から初代尾上菊之丞の名前を許されたのが、尾上流の始まりです。このとき、六代目菊五郎は宗家・初代家元となり、菊之丞は二代目家元となりました。

六代目菊五郎は、この尾上流の他にも西川流など多くの舞踊の流派を創始し、自分の弟子を家元としました。なかでも尾上流は、九代目團十郎・五代目菊五郎の薫陶を受けた六代目菊五郎の教えと、初代菊之丞が舞踊を学んだ藤間流とが融合してできた流派であり、品格と新鮮さを重んじると言われます。

現在の家元は二代目尾上菊之丞(1943‐)で、初代菊之丞の甥にあたり、歌舞伎、新派の振付のほか、初代から受け継いだ東をどりや鴨川をどりの振付にも功績があります。また尾上流宗家は、代々尾上菊五郎家が継承しており、七代目梅幸が二代目宗家、現菊五郎が三代目の宗家を名乗っています。


か行

重ね扇(かさねおうぎ)

尾上菊五郎家の定紋である「重ね扇に抱き柏」は、開いた扇を重ね、丸の中に柏の葉が向かい合わせに描かれた模様が描かれています。これは、初代菊五郎が、贔屓から扇に乗せた柏餅を出された際に、自分も自らの扇を開いて受けた、という逸話を定紋にしたものと伝えられています。尾上家の一門は、この重ね扇の中の模様に自分の名前を入れて紋所としています。「重ね扇」と言えば尾上家をイメージするものなので、菊五郎主演の芝居の外題に使われたり、舞台で歌われる唄に歌詞として読み込まれたりしています。

兼ル(かねる)

立役と女方の両方を兼ねて演じる役者の芸域の広さを称賛して「兼ル」と言います。

三代目尾上菊五郎(1784–1849)は、とりわけ鶴屋南北の怪談狂言で有名ですが、和事、実事、敵役、女方、老け役など、あらゆる役柄を演じ分けることで、他に並ぶ者のない名優でした。三代目菊五郎が活躍した化政期は、一人が七つ・九つの役を踊り分ける変化舞踊が流行した時期でもあり、菊五郎のように様々な役柄を兼ねられることが、評価の基準のひとつになった時代だったのです。

お岩と小仏小平、佐藤与茂七の三役を早替りで演じた、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、菊五郎の「兼ル」役者ぶりを示す舞台として最も有名ですが、彼の役の幅の広さはその三役では到底語りつくせないものでした。三代目菊五郎を評して、「何にても出来ぬという事なき故、兼ルという称を得たるなり」(『俳優百面相』)とあります。

「兼ル」芸風は、役の幅に多少の差はあれ、五代目菊五郎、六代目菊五郎と受け継がれました。そして当代の菊五郎も、『仮名手本忠臣蔵』のお軽と勘平、『雪暮夜入谷畦道』の三千歳と直侍というように立役・女方の重い役をどちらも演じることの出来る「兼ル」役者と言えるでしょう。

河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)

現在の歌舞伎のレパートリー全体にとってなくてはならない、幕末・明治期を代表する狂言作者です。音羽屋にとってはとりわけ深い関わりが深く、幕末から明治時代にかけて活躍した五代目尾上菊五郎は、この黙阿弥と語らって、世話狂言を中心にたくさんの作品を演じ、その中のいくつかは音羽屋の芸として現在も継承されています。

河竹黙阿弥(1816-1893)は商家に生まれましたが、10代から花街に出入りして、親に勘当されたと言われています。貸本屋の手代として働きながらも、茶番や俳句、狂歌などで才能を発揮します。その後、歌舞伎作者の五代目鶴屋南北の門弟に入り、勝諺蔵となって歌舞伎作者の道を歩み始めました。天保14(1843)年に二代目河竹新七を襲名し立作者となり、長きにわたり活躍。多くの名作を手掛けて、江戸から明治へと時代の波に揺さぶられた歌舞伎に大いに貢献しました。晩年を迎えた明治17(1884)年に「黙阿弥」を名乗って引退披露を行いますが、その後も作者に恵まれなかった歌舞伎界は、彼に引退を許さず、執筆活動は死の直前まで続けられました。

幕末から明治にかけて50年間、立作者として活躍したのですから、時代物、世話物、舞踊など多岐にわたります。けれども、音羽屋にとって最も縁が深いのは、なんといっても世話物の数々でしょう。黙阿弥自身がもっとも得意としたのもまた、世話物でした。『青砥稿花紅彩画』(弁天小僧)、『天衣紛上野初花』(直侍)、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)など、黙阿弥が五代目菊五郎にあてて書いた役々は、当代の菊五郎にとっても当り役になっています。

菊五郎格子(きくごろうごうし)

尾上菊五郎家の「家の模様」のひとつです。縦に4本、横に5本の筋を格子に組み合わせ、その中にカタカナの「キ」の字と白抜きの「呂」の字をはめ込んでいます。これにより、菊五郎=き(キ)・く(格子の筋4本+5本)・ご(格子の筋5本)・ろう(呂)となる、という洒落た模様です。この模様は舞台衣裳に取り入れられて、『忠臣蔵 五段目』の勘平の衣裳(肩入れの部分)や『源氏店』のお富の着物の裏地などに用いられるほか、稽古や楽屋で着る浴衣などにも使われています。

菊次郎(きくじろう)

尾上家の門弟名のひとつで、四代を数えます。初代(?-1834)と二代目(1814-1875)の菊次郎は、ともに三代目菊五郎のもとで修業を積んだ女方でした。二代目はとくに有名で、四代目菊五郎をしのぐ実力だったといわれています。幕末には四代目市川小団次の相手役として、生世話物の女方を得意として人気を集めました。

三代目菊次郎(1882-1919)は、五代目菊五郎の門弟でした。可憐な容姿の若女方で、市村座を本拠地として活躍していた六代目菊五郎の相手役を勤めるようになります。六代目も菊次郎を気に入って重用しますが、菊次郎は大正8(1919)年、38歳の若さでこの世を去ってしまいます。この三代目菊次郎については逸話が多く、「三千歳直侍」の舞台で、直次郎を演じる六代目が自分の手を握る際に、冷たいほうが情感が込めやすいだろうと、氷水で手を冷やしてから舞台に上がったという逸話が残されています。

四代目菊次郎(1904-1981)は関西の出身で、四代目中村富十郎の兄にあたる役者です。もともと音羽屋とは関係のない血筋ですが、六代目菊五郎に認められ、その相手役を勤めたことで知られています。晩年はふたたび関西に移り、深みのある女方芸を完成させました。


さ行

蜆売三吉(しじみうりさんきち)

蜆売の三吉は『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』(鼠小僧)に出て来る子役の役名です。「鼠小僧」は安政4(1857)年に四代目市川小団次によって初演された作品です。そのときに三吉を演じたのが、当時14歳の十三代目市村羽左衛門、すなわち後の五代目菊五郎でした。

易者に化けた鼠小僧は、雪の降りしきる中で蜆を売り歩く少年三吉から、自分が人助けと思って盗んだ金がもとで、三吉の姉とその夫、さらには自分自身の父親にまで難儀をかけていると聞かされます。その罪を悔いて鼠小僧は自首することになるのですが、この雪の場面での三吉とのやりとりは、見せ場のひとつとなりました。

五代目菊五郎が鼠小僧を演じたときには、当時丑之助を名乗っていた六代目菊五郎が16歳で三吉を演じ、六代目菊五郎が鼠小僧に扮したときには、同じく丑之助を名乗っていた後の七代目梅幸が三吉になる、というように、代々親子で演じられてきました。

梅幸が三吉を演じたのは、10歳のときでした。五代目や六代目よりも、ずっと小さなときにこの大役を務めたことになります。稽古の際に、梅幸は雪の中を歩く足取りがなかなかうまく表現出来ず、六代目に雪の降っている庭へ突き落とされました。実際に雪の上を歩いてみよというのです。役とともに、演じることの厳しさを教えられた逸話として残っています。

新古演劇十種(しんこえんげきじゅっしゅ)

五代目尾上菊五郎によって定められた音羽屋の「家の芸」です。

初めて「新古演劇十種の内」と銘打って上演されたのは、明治20(1888)年の『土蜘』の再演のときです。その後、明治33年の『刑部姫』まで「新古演劇十種」に定められたのは9作品。そのまま五代目が没してしまったため、六代目菊五郎が大正元(1912)年に『身替座禅』をこれに加え、「新古演劇十種」の制定を完成させました。

10作品は次のとおりです。『土蜘』、『茨木』、『戻橋』、『羽衣』、『菊慈童』、『一つ家』、『刑部姫』、『羅漢』、『古寺の猫』、『身替座禅』。能の舞台を模した松羽目物や、能に取材した作品が多いこと、古い伝説などの故事に因んだ作品が多いことが特徴で、明治という時代を反映しています。

助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)

歌舞伎十八番のひとつ『助六由縁江戸桜』(助六)を、尾上家が上演するときに、この外題を使います。

「助六」は、二代目市川團十郎が『花館愛護桜』で演じたのが初演と言われ、生涯を通じて3度演じたことで、現在の「助六」の原型を創り上げたと言われています。ただ、その後も上演されるごとに工夫が重ねられ、一幕物として大成したのは二代目の初演から50年以上も後のことでした。さらに、七代目團十郎によって市川家の「家の芸」である「歌舞伎十八番」に制定されたのは、江戸時代も終わりにさしかかった天保3(1832)年のことです。

市川家と「助六」、この二つになくてはならないのが、劇中で上演される河東節という浄瑠璃です。江戸の時代から商家の旦那芸であった河東節は、現在でも市川家が演じる『助六由縁江戸桜』のときには必ず出演する慣わしになっています。

さて、とかく市川家との結びつきが強調される「助六」ですが、尾上家でも代々の菊五郎が演じています。初代菊五郎は、現在の「助六」とはだいぶ筋が違ってはいましたが、延享3(1746)年に市村座で助六の役を演じました。現在のものと近い形では、三代目菊五郎が文政2(1819)年に、五代目菊五郎が明治3(1870)年に演じ、六代目、さらには当代の菊五郎へと受け継がれています。

『助六曲輪菊』という外題は、大正4(1915)年に六代目菊五郎が初演したときに始まったものです。「曲輪菊」という名前は、三代目菊五郎が演じた際の浄瑠璃、半太夫節の曲名からとったと言われています。六代目は、物語の筋や衣裳はほぼ市川家の助六に倣って演じましたが、後半の部分でも紙衣に着替えず、違う味わいを持つ音羽屋の助六を確立しました。市川家では河東節にあたる劇中の浄瑠璃を清元にして演じたのも特徴のひとつです。五代目が演じたときには常磐津節を使ったそうですが、五代目清元延寿太夫、二代目清元梅吉という名人を得て、明治末期から大正期にかけて流行していた清元節に移したのは六代目の見識と言うべきでしょう。


た行

多賀之丞(たがのじょう)

三代目尾上多賀之丞(1887‐1978)は、菊五郎劇団で大きな存在感を発揮した女方でした。九十歳まで現役で舞台を勤めたことでも知られています。

そもそも多賀之丞という名跡は、尾上家に縁が深く、初代菊五郎の師匠を三代さかのぼると、元禄期の初代多賀之丞に行きつくといわれています。二代目は、幕末。明治期の女方で、時代物を得意としました。

三代目多賀之丞を昭和2(1927)年に継いだのが、大正10(1921)年から六代目菊五郎の相手役を勤めるようになっていた、五代目市川鬼丸でした。鬼丸はもともと、浅草の宮戸座という小芝居の小屋で活躍する役者でしたが、彼の才能を知った六代目に乞われて、大歌舞伎へ出演するようになりました。移籍から6年の後に三代目多賀之丞を襲名し、六代目にとって、さらには菊五郎劇団にとってなくてはならない女方となったのです。

戦後の菊五郎劇団では『仮名手本忠臣蔵』「六段目」のおかや、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の後家お常など、時代物・世話物の老女方として活躍しました。

また、浅草の芝居小屋で培った味が存分に発揮され、人気が高かったのは『盲長屋梅加賀鳶』のお兼です。伝法で、ずる賢く悪事をたくらむ悪婆、それでいて道玄にすっかり惚れている女の生きざまを見せました。

多賀之丞は、的確な演技で菊五郎劇団を長きにわたって支えました。晩年、その力量が認められ、昭和43 (1968) 年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に老女方として認定されています。

鶴屋南北(つるやなんぼく)

怪談狂言で有名な、文化文政期(1804-1829)の狂言作者です。四世鶴屋南北(1755-1829)は、安永5(1776)年に見習い作者となりますが、その後も長く下積み生活を送ったことで知られています。初めて立作者となったのは享和3(1803)年48歳のときであり、翌文化元(1804)年に初代尾上松助の主演で上演した『天竺徳兵衛韓噺』が大評判を得て、多くの人の知るところとなりました。文化8(1812)年、57歳にして四世鶴屋南北を襲名してからは、名実ともに歌舞伎界に君臨する大立者となることになります。

この鶴屋南北の活躍にとって忘れてならないのが、初代尾上松助と三代目尾上菊五郎という二人の音羽屋です。南北の出世作となった『天竺徳兵衛』を演じた初代松助は、怪談狂言を得意としました。天竺徳兵衛の筋に小幡小平次の怪談を織り込んだ『彩入御伽草』(文化5年)や、同じく天竺徳兵衛の筋に阿国御前の怪談と累の伝説を加えた『阿国御前化粧鏡』(文化6年)といったケレン味あふれる南北の作品で、観客を魅了しています。晩年に松緑を名乗ってからは、『尾上松緑洗濯噺』(文化10年)、『復松緑刑部話』などと題して、これまでに演じた南北の怪談ものの総集編とでも言う作品を演じ、南北・松助・怪談狂言という結びつきを固めました。

南北と初代松助が作り上げた音羽屋の怪談狂言は、松助の子供の三代目菊五郎に引き継がれます。三代目菊五郎は、老若男女の役々を「兼ル」役者であったので、南北の作品でも一つの作品中で何役かを早替りする趣向が好まれました。『東海道四谷怪談』(文政8年)では、お岩、小仏小平、佐藤与茂七の三役を替り、南北の代表作となりました。その他の作品でも、『浮世柄比翼稲妻』(文政6年)では色男の名古屋山三と遊女小紫の二役を勤め、また『東海道五十三驛』(文政10年)では十二役もの役を早替りで演じる快挙を成し遂げました。

すぐれた作者とは「座元に親切、役者に親切、お客に親切」だと言ったのは河竹黙阿弥ですが、南北もまた、初代松助と三代目菊五郎という二人の役者の魅力を存分に活かした作品を書くことで、観客を喜ばし、興行主の期待に応えて、歌舞伎史に名を遺す名作者となりました。爛熟しかつ退廃した化政期の江戸文化を、歌舞伎のなかに生き生きと表現したという点からみても、鶴屋南北が遺した偉大な業績は、『東海道四谷怪談』のみを代表作とするには余りあるものと言えるでしょう。

寺嶋・本名の由来

寺嶋という菊五郎家の名字は、明治4(1871)年に戸籍法が制定された際に、五代目菊五郎が選んだものです。明治時代になって、以前は武士にしか許されなかった名字を、身分に関わりなく名乗ることになり、歌舞伎俳優たちもそれぞれ名字を定めました。寺嶋姓は、五代目菊五郎の祖父にあたる三代目菊五郎が天保9(1838)年、「一世一代」として中村座に出演し、その後は、当時の江戸・向島の寺嶋村に隠居したという故事に由来します。

寺嶋村は、現在の墨田区東向島に位置し、江戸最大の繁華街だった浅草と、隅田川を挟んで斜め向かいに位置する閑静な土地でした。この向島やその対岸の橋場は、大名や商人の別荘や隠居屋敷、料亭などが並ぶ風雅な土地柄だったと言われています。現在、寺嶋という地名は残っていませんが、寺嶋中学校がわずかにその名残を伝えています。


な行

二長町時代(にちょうまちじだい)

二長町は、若き日の六代目菊五郎が活躍した市村座があった町の名前です。市村座は江戸時代から続く由緒ある劇場の名前ですが、この二長町の市村座は江戸三座の市村座と経営上は関係がありません。明治25年(1882)年に市村座が浅草猿若町から二長町に移転し、明治41(1908)年に興行師の田村成義が興行権を手にしたのを機に人気を集めるようになりました。

田村は、当時まだ20代だった六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門、七代目坂東三津五郎らを招き、若手中心の公演で人気を呼びました。なかでも菊五郎と吉右衛門は「菊吉」と呼ばれ、芸風の違う二人の競演が大いに人気を呼びました。二人のライバルの競演は、吉右衛門が市村座を脱退する大正9(1920)年に終わりを告げます。

およそ12年間続いたこの時代は、明治の名優「團菊」の芸の継承、昭和へ続く芸の創造という両面において、歌舞伎の近代史に大きな意味を与えています。この時代は劇場の名をとって「市村座時代」、または「二長町時代」と呼ばれます。

二長町の名前の由来は、江戸時代にさかのぼります。もともと武家屋敷町であったこの辺りには、藤堂佐渡守の屋敷と宗対馬守の屋敷があり、その区画が二丁(約220メートル)であったと言われています。その二丁が二長町に転じたというのが有力な説です。なお、現在の地名は、台東一丁目。町名の名残を残していた二長町小学校も、平成2年の統廃合で場所を移し、平成小学校となってしまいました。


は行

梅幸(ばいこう)

梅幸はもともと初代菊五郎の俳名でしたが、三代目菊五郎が前名として三代目梅幸を名乗って以来、役者の名前となりました。四代目の梅幸もやはり、四代目菊五郎の前名です。この四代目菊五郎は梅幸を名乗っていた時期のほうが長かったためか、「梅幸菊五郎」と呼ばれます。

五代目の梅幸は五代目菊五郎ですが、彼は役者としては梅幸を名乗らず、俳名としてのみ使っていたようです。

梅幸という名前が女方の大名跡として定着したのは、やはり六代目梅幸(1870〜1934)からと言ってよいでしょう。六代目梅幸は五代目菊五郎の養子のひとりです。彼はもともと尾上朝次郎という役者の息子で、栄之助という名前でした。明治9(1876)年に巡業先の名古屋で、五代目菊五郎は、子役の栄之助と同じ舞台に乗りました。当時まだ実子のなかった五代目菊五郎は、このときすぐに養子にしたいと願い出ますが、聞き入れられず、養子縁組は明治15年まで待つこととなります。栄之助13歳のときでした。これからわずか3年の後に、五代目には、のちに六代目菊五郎となる実子が誕生するのですから、皮肉なものです。

五代目菊五郎は栄之助を熱心に指導し、栄之助もまたそれに応えて修業に励みました。女方として人気を呼ぶようになっても決しておごらず、控えめな性格であったことも知られています。五代目菊五郎が世を去ったときにも、菊五郎の名跡は実子の丑之助に継がせ、自分は俳名の梅幸を襲名しました。

梅幸となってからは、主な活躍の場を歌舞伎座から帝国劇場へと移し、十五代目市村羽左衛門とのコンビで大いに人気を博しました。三千歳直侍、お富与三郎など、美男美女のカップルは、当時の名優五代目中村歌右衛門を中心とする歌舞伎座に対抗するに十分な人気と実力を兼ね備えていたと言えるでしょう。 六代目梅幸は昭和9(1934)年、歌舞伎座の舞台で『源太勘当』の延寿を演じている最中に脳溢血に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

七代目梅幸(1915〜1995)は、誕生直後から六代目菊五郎の子として育ちました。菊之助から梅幸を襲名したのが、昭和22(1947)年、31歳のときでした。六代目の厳しい指導を受け、十五代目羽左衛門の相手役を勤める機会もあり、上品な女方芸を身につけました。六代目の死後も、二代目尾上松緑とともに菊五郎劇団の中心メンバーとなって活躍しました。

菊五郎劇団では十一代目團十郎と松緑の相手役として、時代物、世話物両方の女方を一手に引き受けることとなりました。女方を中心としながらも、七代目梅幸の当たり役に挙げられるのが『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官です。仕どころが少なく、それでいて強固な意思を胸に秘めた難しい役のひとつを、これほどまでに得意とした役者は他にありません。

梅幸の名跡はこうして代々受け継がれ、まるで「梅の幸せ」というその字面を表象するかのような、控えめでおっとりとした女方の名前として、人々の記憶に刻まれています。

梅幸茶(ばいこうちゃ)

鼠色がかった淡萌黄(淡い若草色)を指し、尾上菊五郎家の色として使われています。初代尾上菊五郎が好んだ色と言われ、その俳名の梅幸をとってその名としました。萌黄をやや落ち着いた色調にしたもので、春の新緑を表すといいます。爽やかでかつ柔らかく品の良い雰囲気は、菊五郎家の芸風にもつながります。主な歌舞伎俳優の家にはそれぞれの家の色があり、その多くは口上の時に着る裃に使われています。菊五郎一門も、口上の時にはこの梅幸茶の裃をつけて舞台に上がります。

梅寿(ばいじゅ)

三代目菊五郎の俳名です。もともと菊五郎家の俳名は梅幸でしたが、三代目は菊五郎となる以前に梅幸を役者名として名乗っていましたから、別の俳名が必要となったのでしょう。名優だった三代目を敬して、梅寿菊五郎と呼ぶこともあります。
また、鶴屋南北と組んで怪談狂言を得意とした三代目菊五郎は、弘化4(1847)年、怪談狂言の集大成として『尾上梅寿一代噺』(おのえきくごろういちだいばなし)を上演して引退しています。実際は、このあとも死の直前まで舞台に立つことになるのですが、いずれにしても、芝居の外題にまで自分の名前を読み込むほどに、実力・人気を兼ね備え、引退を観客に惜しまれる役者であったと言えるでしょう。

弁天小僧(べんてんこぞう)

弁天小僧菊之助は、文久2(1862)年に市村座で初演された河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画』の主人公です。この役は、当代の菊五郎の最大の当たり役であるばかりでなく、その初演から現在に至るまで、音羽屋に由縁の深い役でした。

初演のときに弁天小僧を演じたのは、のちに五代目菊五郎となる十三代目市村羽左衛門です。当時19歳であった羽左衛門の弁天小僧は、その容姿・演技ともに役にぴったりとはまり、大成功を収めました。五代目菊五郎となってからも当たり役として度々演じ、最後の舞台となった明治35(1902)年の公演も弁天小僧でした。

五代目の弁天小僧を受け継いだのが、実子である六代目菊五郎と、十五代目市村羽左衛門です。六代目菊五郎はそのセリフの妙と江戸前の気風の良さで、十五代目羽左衛門はその美貌と歌い上げるようなセリフ術で、それぞれの弁天小僧を演じたと言われています。

芸の系統としては、その二人の弁天小僧の良いところを取り入れて完成させたのが、当代七代目菊五郎の弁天小僧と言えるでしょう。当代は、前名の菊之助を名乗っていた22歳のときに弁天小僧を初役で勤めたときから、当り役として大評判を取りました。その後の上演回数は27回を数えます。近年では、五代目菊之助も演じています。

有名な浜松屋のセリフには、「そこやかしこの寺嶋で」と菊五郎家の本名を入れ込み、「小耳に聞いた父っつぁんの」と父親譲りのセリフであることが表されています。初演で演じた五代目菊五郎は「小耳に聞いたじいさんの」として、祖父、つまり名優と言われた三代目菊五郎譲りのセリフであることをアピールしました。その五代目菊五郎から、六代目菊五郎、七代目梅幸、七代目菊五郎、さらには当代の菊之助へ、親子五代にもわたって継承される役は、親から子へ芸を伝えると言われる歌舞伎の中でも稀な例と言っていいかもしれません。


ま行

松助(まつすけ)

松助の名跡は、初代尾上菊五郎の高弟で、怪談狂言を得意とした初代を始まりとします。二代目松助が三代目菊五郎の前名であり、またその長男が三代目松助を名乗ったこともあり、尾上菊五郎家にとって所縁の深い名跡です。

江戸時代には菊五郎家の御曹司がこの名跡を名乗っていましたが、名人と言われた四代目尾上松助(1843-1928)の活躍以降、脇役の名跡として知られるようになりました。五代目松助(1887-1937)も六代目菊五郎一座の脇を勤めています。

四代目の松助は大阪に生まれ、師匠の七代目市川高麗蔵とともに江戸へ下りましたが、明治維新も間近い元治元(1864)年、当時市村家橘を名乗っていた五代目菊五郎の弟子となります。松助が、前名の梅五郎時代に名声を得たのは、生涯の当たり役となる『雪暮夜入谷畦道』(三千歳直侍)の按摩丈賀です。これによって松助の力量は世に知られるところとなり、その年(明治14(1881)年)のうちに、尾上家の大名跡である尾上松助を襲名。その後も、世話物を得意とする五代目菊五郎の名脇役として、その名を馳せました。

五代目菊五郎亡き後は、帝国劇場で活躍。十五代目市村羽左衛門の切られ与三郎(『與話情浮名横櫛』)には蝙蝠安として、六代目尾上梅幸のお岩(『東海道四谷怪談』)には按摩宅悦として、歌舞伎界になくてはならない存在になりました。

先年に亡くなった六代目(1946‐2005)は、幼少期から名子役として知られていました。二代目尾上松緑の門下で研鑽を積み、平成二(1990)年に尾上松鶴から六代目松助を襲名しました。二枚目から敵役、老け役まで幅の広い役をこなし、七代目菊五郎を支える菊五郎劇団の脇役でした。四代目・五代目の松助の芸域を継ぐ役者として、今後が大いに期待され、充実期を迎えた矢先に病に倒れたのが大変惜しまれます。


や行

斧琴菊(よきこときく)

斧の絵と、「琴」という字のくずし字、菊の絵の三つを順に縦に並べた一種の縞模様で、「善き事を聞く」というおめでたい洒落詞となっています。この模様は平安時代から使われていると伝えられ、初代菊五郎から三代目の菊五郎までの間に、菊と結びつくことから、家の模様として使うようになったと推測されています。この柄も、菊五郎格子と同じように、舞台で着る衣装に用いたり、楽屋で着る浴衣として、菊五郎家の俳優に使われています。