七代目梅幸は、大正4年(1915)8月31日、東京・赤坂に生まれ、六代目菊五郎の養子となりました。本名は 寺嶋誠三です。
大正10年(1921)5月市村座『嫩草足柄育』の金太郎で四代目丑之助を名乗り初舞台。この時の山姥は伯父六代目梅幸でした。昭和10年3月、二十歳のときに丑之助改め三代目尾上菊之助を歌舞伎座で襲名。この月は五代目菊五郎の三十三回忌追善興行で、口上の幕、舞台中央には、五代目の大きな写真が飾られました。
若手時代には桜丸、白井権八などの若衆を勤めていますが、20歳を過ぎたころ、六代目から、「お前は立役へいけないよ」といわれ、女方へと進みました。
昭和十四年には、歌舞伎座で花形歌舞伎がはじまり、『忠臣蔵』の判官とお軽、『すし屋』のお里、『妹背山』のお三輪のような大役を次々と勤めています。
太平洋戦争がはじまってからは、慰問興行にあけくれ、地方を回る生活となりました。
18年から19年にかけては、稀代の二枚目役者、十五代目羽左衛門の一座に加わり、『忠臣蔵』の「落人」で羽左衛門の勘平を相手にお軽を踊り、『菊畑』では若衆の代表的な役柄虎蔵を勤め、羽左衛門に稽古をつけてもらっています。
六代目梅幸未亡人ふじから、梅幸襲名の話が持ち上がり、22年2月、東劇で、三代目菊之助改め七代目尾上梅幸の襲名披露興行が行われました。披露狂言は、『落人』のお軽、『対面』の五郎です。このときの思い出として、梅幸は、「開幕前に父が素顔の羽織袴姿でたった一人で口上をいってくれたが、幕だまりで見ていると、若々しかった父もいつしか髪の毛が真っ白になっていた」(『梅と菊』)と書いています。
昭和24年、六代目菊五郎の逝去を京都で聞いた梅幸は、帰京を急ぐ汽車のなかで、六代目のいなくなった菊五郎劇団がどうなるのだろうと考えていました。当時、菊五郎劇団のほかに、吉右衛門、猿之助、三津五郎がそれぞれの一座を持っていたのですが、戦災で歌舞伎座が焼けたために、松竹系の劇場は、東劇と新橋演舞場に限られていました。70名近い劇団員を抱えて、果たして毎月、出演できる劇場があるのか案じられたのです。
11日の通夜の席で、竹心庵の階上にある物干場に、劇団の主立った者が集まって緊急会議が開かれました。世に言う「菊五郎劇団の物干場会議」です。男女蔵 (のちの三代目左團次)、松緑、彦三郎(のちの十七代目羽左衛門)、九郎右衛門、鯉三郎が集まり、劇団の将来を語り合ったのです。
菊五郎劇団、復活のきっかけとなったのは、歌舞伎座で上演された舟橋聖一脚色による『源氏物語』の上演でしょう。昭和二十六年にはじまったこの舞台は、梅幸の桐壺の更衣、藤壺、玉鬘、女三宮に、九代目市川海老蔵(のちの十一代目市川團十郎)の光源氏が評判を呼び、昭和二十九年の第三部へと上演を重ねます。原作の「桐壺の巻」から「幻の巻」までを劇化し、戦後の歌舞伎界で新作が上演される筋道をつけたのです。
代表的な時代物の役柄は、『合邦』の玉手御前、『先代萩』の政岡、『忠臣蔵』 のお軽、戸無瀬、『道明寺』の覚寿、『妹背山』のお三輪、『野崎村』のお光と女方の大役を網羅しています。世話物では、『弁天小僧』の弁天、『魚屋宗五郎』のおはまが思い出されます。
また、前髪の若衆や和事の役にすぐれ、『忠臣蔵』の判官、『菊畑』の虎蔵、 『千本桜』の桜丸、『廿四考』の勝頼、『鈴ヶ森』の権八の匂い立つような姿をみせました。さらには、六代目を継いで、『鏡獅子』『道成寺』『藤娘』『保名』をまさしく正統として踊りました。
平成7年(1995)、79歳でこの世を去りました。演劇界の紳士として、そのたおやかな芸風とおだやかな人柄によって、多くの人々に慕われた一生でした。
当代の菊五郎は、父梅幸が亡くなったとき、雑誌「演劇界」に応えて「丑之助が菊之助を襲名するのを見届けたいと、病床で言っていました。父はそれだけがこころ残りでしたでしょう。でもきれいなイメージのまま逝ったのは幸せですし、團十郎のおじさん(十一代目)、松緑のおじさん(二代目)といういい相手役に恵まれて、 数々の舞台をつとめることが出来たのは、役者にとってこれに勝る幸せはありません」と答えています。
六代目中村歌右衛門とともに、昭和を代表する女方といえるでしょう。
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