六代目菊五郎は明治18年(1885)8月26日、東京市日本橋区浜町にある五代目の別宅で生まれています。
初舞台は、生まれて十ヶ月目の明治19年5月22日。千歳座の大切浄瑠璃『初幟柏葉重』でした。三代目尾上丑之助を襲名したのは、二十四年五月の新富座です。五代目の項で述べた『恋女房染分手綱』の三吉を、改名の翌年五月、團十郎の重の井を演じたのが出世役となりました。
明治30年6月歌舞伎座で『忠臣蔵』の七段目、祇園一力の場に、13歳の六代目は太鼓持の役で出て、「ゆうべ夢見た大きな夢、奈良の大仏蟻が引く」の踊りを踊りましたが、由良之助役で同じ舞台に出ていた團十郎は、後ろからじっとみて、斧九太夫をやっていた四代目尾上松助に、
「おれは、幸坊に踊をみっちり仕込んでみたいが……」をもらしたのをきっかけに、弟の栄造(のちの六代目坂東彦三郎)とともに、築地にあった團十郎の本宅へ通い、夏には茅ヶ崎の別荘に泊まり込んでの教育がはじまりました。
明治36年、五代目の死の翌月、團十郎は、五代目の遺言に従って、周囲を説得し、葬儀の翌月には、歌舞伎座で、栄三郎改め梅幸、丑之助改め六代目菊五郎、栄造改め栄三郎、三人の襲名披露が行われています。
ニ長町にあった市村座を経営する田村成義は、六代目と初代中村吉右衛門を呼び、このふたりを軸に狂言を組み立てる構想を語りました。本格的には明治41年11月から、大正をはさんで、昭和2年(1927)に至るまで『ニ長町時代』と呼ばれる時代の幕開けです。六代目は、五代目ゆずりの世話物を呼び物とし、吉右衛門は、團十郎を手本に、時代物を次々と上演していきました。
昭和9年には、帝国劇場の座頭であった兄の六代目梅幸が亡くなりました。追うようにして、13年には、弟の坂東彦三郎に先立たれたのです。十二代目片岡仁左衛門、初代中村鴈治郎、七代目市川中車、四代目澤村源之助と明治の名優たちが次々とこの世を去り、六代目はいよいよ歌舞伎界で重きをなすことになりました。
渥美清太郎は、『昭和十一年ごろの菊五郎は、もう等々の劇壇において確乎不動の地位を占めていました。事実においてすでに王者となっていた』(『尾上菊五郎評伝』)と振り返っています。いずれにしろ、後年、神格化される六代目の芝居は、この時期に外部からの評価も含めて、完成したと考えられます。
昭和20年10月、帝国劇場で『鏡獅子』と久保田万太郎脚色の『銀座復興』に出演、翌21年12月には、京都南座の顔見世にはじめて出演しました。『吃又』『文七元結』『素襖落』『鏡獅子』と六代目の当たり狂言が並び、大入りとなりましたが、長年の無理がたたって、腎臓病からくる高血圧症が発症したのです。
昭和24年の東劇で、『寺子屋』の松王丸と『加賀鳶』の梅吉と道玄を演じたのが、六代目最後の舞台となりました。
7月3日の晩、友人たちと天ぷらの会の途中で、急に痙攣を起こし、寝たままとなりました。6日には、容体を見守るため京都での映画撮影を延期していた七代目梅幸を呼び、
「おい誠三(梅幸の本名)、おめえ映画をとるんだろう。どうしたんだ、まだいかねえのか」と訊ね、延期していると答えると、『とんでもねえ話だ。役者は舞台が戦場だってこたあおめえも知っているだろう。映画だって同じことだ。引き受けた仕事は責任を持たなきゃいけねえ』とたしなめたといいます。(『梅と菊』)。
10日の午後0時37分、六代目尾上菊五郎は永眠しました。享年64歳でした。
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