菊五郎家の代々

家系図 > 五代目菊五郎

近代歌舞伎を確立した明治期の大立者

五代目菊五郎イメージ 弁天小僧
五代目菊五郎イメージ おまつり佐七
五代目菊五郎イメージ 保名

五代目尾上菊五郎(1844-1903)

五代目菊五郎は、幼名市村九朗右衛門。市村座の座元で俳優でもある十二代目市村羽左衛門の次男として、弘化元年(1844)に、江戸猿若町に生まれています。

文久2(1862)年の3月には、音羽屋の家の芸といえば、まず最初に思い浮かぶ新作『弁天小僧』(『青砥稿花紅彩画』 あおとぞうしはなのにしきえ)を、河竹黙阿弥に依頼し、上演しています。

明治元年(1868)の八月、太夫元と羽左衛門の名を弟の竹松に譲り、自身は母方の尾上家を継いで、五代目尾上菊五郎を襲名し、翌年には中村座の座頭となっています。

五代目は、芝居心と洒落気に貫かれていました。

火事を知らせる半鐘の音を聞くとじっとしていられず『い組』の刺子袢纏を着て、鳶口を持って、駆けつけました。弟子の扇蔵の家のそばで火事が起きたとき、火事見舞に来た五代目に、お燗をした酒に蛸の肴を出すと、不満顔で、
「土間に立ったまま、茶碗で冷やをのませてくれ、肴は厚切りの沢庵をてのひらにのせてくれればいい」
といったと、自伝にしるされています。

明治14年『直侍』の片岡直次郎、16年『魚屋宗五郎』の宗五郎、18年『四千両』の富蔵、十九年『加賀鳶』の梅吉と道玄など、音羽屋にとって大切な役となった世話物の立役を次々と演じています。

五代目の本領は、江戸の風俗を写した世話物にあり、その多くが、十五代目市村羽左衛門と六代目に継承されました。

明治20年4月、興行師の十二代目守田勘弥の奔走により、麻布鳥居坂の井上馨邸において、九代目團十郎とともに菊五郎も出演した初の天覧劇が実現しています。それまで身分上はさげすまれてきた歌舞伎俳優にとって、大きな転換点となる出来事でした。

大立物となった俳優と興行主は、集合離散を繰り返しながら、覇を競いました。そのため團十郎と菊五郎の不仲が生まれましたが、六代目となる丑之助を介して、和解した挿話が残っています。

明治24年、五代目が大阪に下っているあいだ、團十郎が『重の井の子別れ』を出し、その子役に、六代目菊五郎となる丑之助を馬方の三吉に使いました。三吉は、子役にとってむずかしいとされています。九代目のそばで三吉役を勤めたのをきっかけに五代目と團十郎の仲は密接になり、翌32年4月、歌舞伎座の『勧進帳』では、團十郎の弁慶に、五代目は初役で富樫を勤めています。「今度くらいの富樫に出会ったのは始めてで、実に好い心持ちがした」と、九代目は賞賛を惜しみませんでした。

しかし、明治を代表する二大名優の共演も長くは続きませんでした。翌33年、3月歌舞伎座、五代目は『義経千本桜』でいがみの権太と忠信を演じていましたが、『河内山』に出演していた團十郎が病気のため休演、五代目が代役を勤めました。團十郎はまもなく全快しましたが、11月の『国姓爺』では和藤内を勤めていた五代目が倒れました。

明治36年3月には、歌舞伎座に出演する予定で、口上看板まで出したが、2月18日、新富町の自宅でこの世を去りました。