二代目の夭折によって血筋が絶えたために、菊五郎の名跡は、門弟の尾上松助によって受け継がれました。
若年のころ、三代目は、楽屋の鏡台に向かって、ひとり言に、
「俺はどうしてこんなによい男なのだろう」
と言ったのを、居合わせた者はだれもおかしいとも思わず、
「誰が見てもいい男なのだから、親方自身がそう思うのはもっともなことだ」
と語り合ったほどの美男であったと伝えられています。
三代目は、天明4年(1784)、江戸小伝馬町の建具屋仙次郎の子として生まれました。早くから、初代尾上松助(のちの初代松緑)の養子となり、天明8年には、尾上栄三郎として、市村座で初舞台を踏んでいます。文化6年(1809)には、二代目松助を襲名。文化11(1814)に初代、二代目の俳名であった梅幸を三代目として名乗り、翌12年には、三代目の没後、30年間絶えていた菊五郎の名跡を復活し、三代目となりました。
文化年間から頭角を表し、『伊勢音頭恋寝刀』の貢、『鏡山』の岩藤、『忠臣蔵』の勘平で当たりを取りましたが、立役から女方まで芸域は広く、『兼ル』役者とたたえられました。『伽羅先代萩』では、政岡と仁木弾正、『鏡山』では、岩藤とお初のように、両極端の役柄を手がけています。
得意とした当り役に『忠臣蔵』の判官と勘平、『菅原』の菅丞相と桜丸、『義経千本桜』の権太・忠信に加えて、江戸の現代劇ともいうべき世話物では『お祭佐七』の佐七、大工六三郎などがあります。養父松緑ゆずりの怪談物も得意としました。現在の音羽屋の芸風は、この三代目で定まりました。
四代目鶴屋南北の台本による『東海道四谷怪談』を、文政8年(1825)7月中村座で初演したのが、三代目です。菊五郎は、お岩・小平・与茂七の三役を早替りで演じ、退廃的な文化・文政時代の風潮を映した『生世話物』を作り上げました。他に南北の作として、文政10年、河原崎座の初演の『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』などがあります。
天保9年(1838)11月、向島の寺島村に隠居しましたが、舞台への愛着はやみがたく、たびたび復帰しています。嘉永2年(1849)正月、大坂・角の芝居に出演中病に倒れ、江戸に戻る帰路、4月24日、遠州掛川で死去。享年66でした。
文化5年(1808)に大坂に生まれましたが、天保2年(1831)、大坂の角の芝居に出勤していた三代目の娘婿となって、尾上菊枝を名乗り、同年8月には三代目栄三郎と改めて、江戸へ下りました。天保10年(1839)9月、河原崎座の『安達』で五代目海老蔵(七代目團十郎)の老婆に責め殺される傾城恋衣で評判を得、徐々に時歩を固め、弘化3年(1846)正月、38歳で四代目梅幸を襲名。さらに、安政3年(1856)春、48歳で四代目菊五郎となりました。
世話物よりも時代物を得意とし、『先代萩』の政岡は、三代目の型を受け継ぎ、品格・情味にすぐれていました。『忠臣蔵』の戸無瀬、『妹背山』の定高、『重の井子別れ』の重の井、『鏡山』の尾上が当たり役でした。時代物の他では、『小猿七之助』の御守殿お熊、『切られ与三』のお富、『遊女玉菊』などで、運命に翻弄される女を演じて、好評を得ました。
万延元年(1860)6月28日、53歳で死去。梅幸の時代が長かったために、梅幸菊五郎と呼ばれています。
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