菊五郎家の代々

家系図 > 初代・二代目菊五郎

初代と二代目、音羽屋の創成期を築いた人々

初代菊五郎イメージ 初代菊五郎
初代菊五郎イメージ 初代菊五郎

初代尾上菊五郎(1717-1783)

初代尾上菊五郎は、享保二(1717)年京都で、都万太夫座で観客の便宜をはかる出方、音羽屋半平の子として生まれました。幼名は竹太郎、俳名は梅幸です。

尾上左門の弟子となって尾上菊五郎を名乗り、同15年11月、13歳で若衆方として、京都榊山座に出演したのが初舞台と伝えられています。

23歳のとき、大坂の中村富十郎座に移りましたが、翌寛保元(1791)年には、大坂、佐渡島長十郎座に出ていた市川海老蔵(二代目團十郎)に引き立てられ、『雷神不動北山桜』で、海老蔵の鳴神上人の相手役、雲の絶間姫を務めたのが、出世のきっかけとなりました。寛保二年の冬には、海老蔵に誘われて、江戸に下っています。

器量もよく色気も十分だった菊五郎は、女方とともに若衆方も勤めましたが、江戸では大きな成功を収めることができず、宝暦2(1752)年に太夫元市村羽左衛門のすすめにより、立役に転向しています。翌宝暦3年には、二世松本幸四郎の巌流とともに『敵討巌流島』を出し、篠田左衛門と月本武者之助を勤めています。菊五郎の妻は、初代坂東彦三郎の娘でしたが、武者之助を菊五郎は、岳父の型の通りに演じて「古来稀なる大出来」と評され、立役としての地位が固まりました。

女方と立役を兼ル音羽屋の伝統は、この初代からはじまっています。

菊五郎は、副業として堺町に油見世を開いていました。ところが、明和3(1766)年、2月29日の午後3時頃、油を練る鍋に、隣接した若衆茶屋の少年が捨てた煙草が入り大火となり、江戸三座のうちの二座、中村座と市村座が類焼して焼け落ちる事件が起きました。両座は、まもなく普請して再興したのですが、土蔵作りだった菊五郎の自宅が焼け残ったために、世間に憎まれ、京都に戻ることになりました。

京都時代の菊五郎は、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、勘平、戸無瀬。『菅原伝授手習鑑』の菅丞相、松王丸。『新薄雪物語』の園部兵衛。『一谷嫩軍記』の六弥太。『桂川連理柵』の帯屋長兵衛など、大役を次々と勤めて評判を取り、3年目に江戸に戻りました。

安永2(1773)年からは、6年のあいだ大坂の劇場に出演していましたが、ふたたび、江戸に戻った安永9(1780)年の5月、市村座で、四代目幸四郎と『出入湊』に上演中、有名な争いが起こったのです。菊五郎は、温厚として知られていたにもかかわらず、幸四郎に舞台で財布を打ち付けたばかりか、幸四郎が仕切場の弥兵衛と結託して堺町に芝居茶屋を出したり、難波町に‘松本香という油見世を出しているのを見苦しいと観客に訴え、真剣で斬りつけようとしたのです。

この事件をきっかけに、菊五郎は江戸を離れ、晩年を京都で送りました。天明三(1783)年12月の『ひらがな盛衰記』の延寿と重忠の二役に出たましたが、興行半ばで倒れ、これが最後の舞台となりました。享年67でした。


二代目尾上菊五郎イメージ 古今俳優似顔大全・真中の女形

二代目尾上菊五郎(1769-1787)

明和6(1769)年、初代菊五郎と、後添いとなった二代目大谷広次の娘のあいだに生まれました。

安永5(1776)年、尾上丑之助として京都藤川座で初舞台。同七年には、父とともに江戸へ下しましたが、2年後には京都へ戻っています。天明3(1783)年、若衆方から若女方へと移りましたが、その年に父を亡くしています。

父に似て器量にすぐれ、声もよく、才質を期待されていました。「小梅幸」と呼ばれ、天明5年には二代目菊五郎を襲名しましたが、天明7年7月12日、初代嵐雛助らと一座して、三田尻に巡業へゆく途中、船中で病を得て、19歳に満たないまま、惜しまれつつ夭折しました。